#9 コツコツ、積み重ねの大切さを知った選手時代

 中学時代、私は学校の野球部に所属していました。そこでやっとレギュラーを取ったのは、中36月。それまでずっと補欠です。本当はピッチャーをやりたかったのですが、それは叶わず、「二番・ファースト」でのレギュラーでした。

 当然、高校も一般入試での進学です。(静岡県立)浜名高校は当時部員が少なかったため、人数合わせに1年時からセカンドを任されるようになりました。ところが私は守備が下手で、エラーの連続。しかし背丈だけは174㌢ほどあり、肩も強そうだということで、9月になって監督から「ピッチャーをやれ」と命じられたのです。これが、うまくハマりました。先輩ピッチャーが1人しかいなかったため、1カ月ほど経つと練習試合でバンバン投げさせてもらえるようになりました。幸い私はスタミナがあったので、日曜日、一人で2試合18イニングを投げても平気だったのです。

夢の甲子園出場は叶いませんでしたが、高校卒業後も野球を続けたいと強く思うようになりました。高校の監督からは、東京の某大学を経て、県内の社会人野球チームに入る道を薦められました。私もそれが第一志望でした。ところが一方で私の父が先走り、駒大野球部OBに進路を相談してしまっていたのです。駒大の太田誠監督が浜松出身という縁もあり、結局、駒大に進学することになりました。

 駒大野球部は、東都大学野球の名門。しかし私は高校時代無名だった“その他大勢”の選手ですから、いつまで経っても外野を走ってバッティング・ピッチャーをするばかり。何一つ練習をさせてもらえません。厳しい環境の中、同級生たちとの友情が支えでしたが、人間関係のイザコザで親友が退部。そこで私の気持ちもプッツリ切れました。1年の10月で退部し、大学に通いながらのアルバイト生活が始まりました。草野球の助っ人で、1試合1万円なんていうアルバイトもしました。

そうして1年半ほど経った頃、高校の監督が教え子(私にとっては先輩)のいる社会人野球のリッカーミシンを紹介してくれました。スポーツ活動に力を入れ始めたリッカーが、野球部でも積極的に新人を採用していたのです。1週間ほど練習しただけで受けた入団テストでしたが、何とか合格。しかしブランクのせいで、最初は練習も無茶苦茶しんどかった。

 それから午前中は仕事、午後は練習、という毎日。寮とグラウンドのある立川から銀座の本社まで片道1時間、朝は満員電車に揺られて通いました。昼には帰寮し、昼食後、練習開始。夕方までの全体練習の後は、シャドウピッチングなど自分で色々と工夫し、コツコツ練習していきました。小さなことからコツコツ、根気よく。野球も清掃の仕事も、根っこは一緒です。

 私には、会社に「拾ってもらった」感覚が強くありました。ですから、会社のために、何とか役に立ちたかった。そのための努力は、惜しみませんでした。最終的にプロ野球からドラフトで指名を受けたのは、一番には運がよかったのだと思います。まさか自分がプロに行けるとは想像もしていませんでしたから。2年半だけの在籍でしたが、少しでも会社に恩返しができていれば嬉しい限りです。

山内和宏(やまうち・かずひろ)氏略歴
 1957年9月1日、静岡県生まれ。駒澤大中退後、社会人野球のリッカーミシンを経て1981年にドラフト1位で南海(現ソフトバンク)ホークスに入団。83年には18勝で最多勝のタイトルに輝き、82年から85年まで4年連続二ケタ勝利を記録。90年のシーズン途中に交換トレードで中日へ移籍し、92年に現役を引退した。引退後は広島県福山市でビル管理会社を経営している。プロ野球12年間の通算成績は97勝111敗、防御率4・30。オールスターゲーム出場3回。