#3 青年会議所入会が縁となり、ビルメン業界へ

 前回は、福山青年会議所(JCI)で出会った友人に誘われ、広島県内で行われた床維持材メーカーのセミナーに参加したところまでお話しました。

当時内装の仕事をしていた友人は、その時すでに、ビルメン業へも手を広げることを考えていたようです。一方、私は全く未知の世界で、「どんなもんか聴いてみよう」と軽い気持ちでついていきました。セミナーは、いわば床のメンテナンスの勉強会。様々な床維持材を使って、床を清掃する方法を教わりました。本当に、知らないことばかりでした。

 そんな状態でこの業界に飛び込んだ理由は、まず40歳を目前にした年齢。そしてその友人も私も、「何かやってみたい」という意欲にあふれていたからです。ひょっとしたら、一人ではやらなかったかもしれません。私より年下の友人でしたが、当時は仲良くしょっちゅう飲みに行く間柄で、彼と一緒だと心強かった。また、彼も私もJCIでの横のつながりがあったからこそ、始める気になったのだと思います。

 ここで少し、JCIの話をしておきましょう。まだスナックを経営していた頃、「野球の時だけ来てくれればいいから」と、JCIに誘われました。要は草野球の助っ人です。

ところがいざフタを開けてみたら、JCIのすべての活動に参加させられました。私は会員の中ではかなりの年長でしたが、あそこは年齢ではなく会員年数優先の世界。委員会にも入らされ、12年目は行事という行事に、すべて引っ張り出されました。

 23年目に就いた『アカデミー委員会』は、新入会員を教育するセミナーを開く部署。それが一番しんどかったですね。中国地区の新入会員セミナーの一環である、12日の研修を引率するんです。これが“引率”とは名ばかりで、結局新入会員と全く同じことをしなければいけませんでした。手作りいかだレース、オリエンテーリングなど、いろいろなゲームをしました。その後、夜は飲み会。あれは親睦会よりもキツかった。

だけど、特にオリエンテーリングで山の中を走るのは、私が一番速かったですね。まだ現役を辞めたばかりで、体力もあったのでしょう。20代の新入会員よりも37歳の私が常に先へ行き、彼らを待っている形でした。

JCIでの私の“同期”は10数人。職種も年齢も違いましたが、プロ野球界に入った時と一緒で、横のつながりができたのは大きかったですね。ましてや私は、福山の町も人間も知らないところから、商売を始めようとしていた人間。スナックを経営していた頃も、委員会行事の二次会、三次会で店に寄ってくれたり、野球部、サッカー部の行事に貸し切りで使ってくれたり、何かと店を利用してもらいました。

そして、ビルメン会社を共同経営することになった友人との出会い。最初は、よその会社が清掃業務を行っている現場へ行って、見学させてもらうところからのスタートでした。会社を立ち上げて34カ月経った頃から、JCIのメンバーを介し、徐々に新規の現場を紹介してもらえるようになりました。そのあたりの詳しい話は、次回にしたいと思います。

山内和宏(やまうち・かずひろ)氏略歴
 1957年9月1日、静岡県生まれ。駒澤大中退後、社会人野球のリッカーミシンを経て1981年にドラフト1位で南海(現ソフトバンク)ホークスに入団。83年には18勝で最多勝のタイトルに輝き、82年から85年まで4年連続二ケタ勝利を記録。90年のシーズン途中に交換トレードで中日へ移籍し、92年に現役を引退した。引退後は広島県福山市でビル管理会社を経営している。プロ野球12年間の通算成績は97勝111敗、防御率4・30。オールスターゲーム出場3回。