寄稿  無災害記録は運の記録ではない

BUI研究会同人 松本慶蔵



 〈禍福はあざなえる縄のごとし〉という言葉がある。禍福は縄のように、たがいにからみあって、かわるがわるやってくるものだ、という意味である。まるでビルメン企業の労働災害発生状況を言い表しているようだ。

 あるビルメンの社長は「昨年は無災害で安全表彰されたのに、今年は5件も発生した。運が悪かった……」と嘆いていた。どうやら、労災の発生を“運・不運”でとらえているようだ。そういう社長に限って、安全教育を勧めると「今、忙しいのでヒマな時にやってくれないか」とおっしゃる。そして、事故が起きると「何故事前に対策を講じなかったのか」と後悔するのが常である。だから“災いは忘れた頃にやってくる”と言うのだが……そんなことは先刻承知なのである。そのようなビルメン企業のトップの安全意識の希薄さが気になる。

 BIUの現場調査の事前打合せで、ある会社を訪問したとき、安全目標を尋ねたところ、社長は「わが社はここ数年平均して20件前後発生しているが、今年はこれをいっきにゼロにするのは無理なので、半分の50%減を目標にしている」と答えた。

 これはおかしな話である。その50%に誰と誰が入っているのだろうか。社長の気持ちは解らないでもない。高望みをせず、努力すれば実現可能な目標にしたい、という気持ちは。しかし、あくまでも労災の目標は“ゼロ災”でなければならない。国家的巨大工事では予め何人かが犠牲になることを想定して、いわゆる“人柱”を計画の段階で入れるのだそうだが、ビルメン企業でも“人柱”が想定されていたとは驚きだった。

 「儲け損いをしていますね」と件の社長に言うと、怪訝な顔をされた。災害コストでは、直接費と間接費の割合が1対4である、と言われている。つまり、治療費や休業補償費などの直接経費の4倍が間接経費というわけだ。間接費というのは、事故当日の当人や同僚たちの不働賃金、物的損害など諸々であるが、これらが実は相当額になる。「だから労災保険がある」とおっしゃるが、その労災保険などは全額補填してくれないことは承知の通りである。それだけ利益がふっ飛ぶわけである。儲け損いをしていることになる。故に、労働災害は経済的にも起こしてはならない。

 勿論、人道的にも起こしてはいけない“一人ひとりかけがえのない人である”。自分もケガをしたくないし、他人(部下)にもケガをさせたくない。と誰もが思うのだが、されど、所かまわず事故は起こっている。何故、事故防止はできないのだろうか。企業も業界も熱心に安全活動を展開しているというのに――。どうやら、その原因は「事故はある程度やむを得ない、ビルメンのゼロ災は夢の又夢である」という一種の宿命論的な考え方にあるのではないか、そんな気がしてならない。

 事故のほとんどが不安全行動が原因であることが毎回の安全分析で検証されている。このことは、人が動いているときに事故は起きるということである。人間は二本足歩行だから“転倒”は避けられない。ましてや運動能力の劣化した高齢者が多いのだ。ビルメンの事故は無くならないというこのような考えが最大のネックだと思うのだが、いかがだろうか。

 事故のほとんどが不安全行動で、その大部分が自分に原因がある、と指摘される。ケガを漢字で『怪我』と書く。己が怪しいというわけだ。特に現場管理者が怪しい。ビルメン業の事故はくり返し型が多いのだが、同じ原因による事故の連続である。これは事故の教訓が活かされていないということである。

 「安全は不可能ではない。現場管理者が“安キチ”になって、不安全行動を目にしたら、即座に“待て”と一声かけてくれるだけでいい」と、安全教育で私は言っている。

 “安キチ”とは表現は悪いが“安全キチガイ”の意味で、職場に安全にうるさい人がいるだけで、職場全体に緊張感がみなぎり、安全が維持される。そんな人になってほしいという意味である。

 ビルメンの事故防止の中心は人であり、その人は、エラーをやらかす動物である。だから現場ではいわゆる『安全のABC』の実践こそが大事であると熱弁をふるっている。つまり、ABCとは当り前(A)のことをボンヤリ(B)しないでチャン(C)とやることの実践である。そういう努力が必要だ。無事故の達成は「運がよかった」のではない。無災害記録は運の記録でなく、努力の記録なのだ。

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