
ビルマ(現ミャンマー)は半年が雨季で、あとの半年が乾季である。その雨季のまっただ中の季節に、密林の頂上へ追い詰めた米第八軍の迫撃砲部隊と対峙して、そこだけがポカッと開いた樹木のない草地を挟んで彼我は戦った。
彼は草地の奥の密林に陣地を築いたマッカーサー揮下の精鋭。我は天下に勇名轟(とどろ)く仙台の第二師団の歩兵第四連隊の猛兵六人。一歩も引かず睨み合ったのは一週間。
幾日かの、頂上まで追い詰めた過程は別として対峙膠着(こうちゃく)した日本軍の陣形は六人を最前線の分哨に釘付けし、後方百メートルに肩幅程の小径を下(くだ)ると細川小隊が展開。さらに二百余メートル下(くだ)った地点に中隊主力が布陣した。六人の兵は敵に突っ込まれたらひとたまりもない幅四十メートルそこそこの草地に身を曝した格好で、敵情偵察・監視の任務に就いた。
敵に米映画の「コンバット」の軍曹みたいのがいて、夜間巧みに草地に出て来て、六人の兵をめがけて手榴弾の一発でも投げこめば、私たちはあえない最後を遂げたにちがいない。が、彼らには撃ち合いを終わった静寂の夕暮れ、また、あるいは、郭公が鳴き止んだあとなど、望郷の思いか、死への恐怖か、で耐え難い泣き声を草地にひびかす兵たちがいた。
少しの休みもなくシトシトと、日本の梅雨のように降りつづく雨に溶けた赤い山肌の泥に塗(まみ)れて、兵の全身は赤く染まっている。さながら赤い芋虫の屍体になって死んでいる自分らの、次の瞬間の姿態を、思い描いてはえもいえぬ悪感が全身を電流のように突き抜けるのを止めようがない。
命令の分哨任務を果たすために私が最初の夜にきめた場所の草地の突端の太い樹木の根方を定位置として、音をたてないことに全神経を集中し、携行しているスコップで固い岩土を掘り、腰を据え、樹木に背をもたれかけて、敵地に全神経を集中する。
敵は退却する時、マイクロフォンを仕掛けて去る。そのマイクが音を拾うと、マイクに照準を合わせてある銃火器が一斉に火を噴く。ぬるぬる辷る赤土の肩幅ぐらいの登りの小径を、音をたてないように私が先頭になって匍匐(ほふく)して登ってきたので、三十メートル後方の敵の掘った矩形の塹壕が分哨任務に交代して就く五人の兵の待機場所だが、第一夜は誰も交代に登ってこなかった−−−いや、私自身もいつのまにか(たぶん)大鼾をかいて熟睡したのかもしれなかった−−−朝がきて、鳥の囀(さえず)りか、何かに目覚めて、敵陣の目の前にわが躯を曝していた自分に気付き、大慌てに背にした木の陰に躰を隠した。
同時に、不思議に、何事も起こらずに生きてこの朝を迎えたことを合掌して感謝した。私は−−−無我夢中で合掌していた。
兵が交代のために葉擦れの音をたてたり、赤い泥に足をすべらせて声でもあげようものなら、マイクが私たちをまえて狙い射ちの一斉射撃の火を噴いたにちがいない。
交代しにこない兵らを怒るよりも死ななかったことを感謝した。とたんに濡れている全身に冷汗が沸き出したことだった。
日本軍は米軍の仕掛けたマイクを「候敵警戒器」と呼んだ。シャツを襦袢(じゅばん)と呼ばせ、ズボンを股下(こした)と呼ばせ、ポケットを物入れと呼ばせて、カタカナ文字はすべて鬼畜米英語とした。もしまちがって使ったものなら、強烈なビンタを食った。
私たちは塹壕を丸く掘る。
米軍は矩型に掘るが、退却した彼らは糧食を塹壕に置き去りにした。兵は壕底の彼らの弁当を食ったが、朝昼夕用と献立は別々で豪華限りなし。しかも毎食にタバコ・マッチ・コーヒー・牛乳・紅茶がセットされていた。兵は見て“凄いッ”と絶句し、舌鼓打って一気に食った。
われわれは若干の米はあるものの、水筒の水さえ補給できず、米を研ぐ水もない。醤油も塩もない。否、塩は現地調達の岩塩か、塩漬け、鱈の干したのが唯一のおかず。持たされた乾パンは命令がなければ食えない定め。食うものなしで分哨をつくったのだから、二日程は節約しながら米軍の弁当で飢えを凌いだ。
敵軍は−−−米軍の輸送機が飛来して密林の樹木すれすれの低空ですべてを補給する。
それを斜に見上げながら両手をあげて“こっちにもくれッ”と叫ぶ。輸送機は扉を開けて米軍陣地へ投下するのだが、投下作業の米軍兵士は開襟半袖・半ズボンの軽装だ。彼の毛脛が見えるほどの近い空を見上げて一発狙い射ったら!と思わないではなかったが、饑(ひも)じさは同じ人間。彼らには泣く兵もいる……。誰も鉄砲を構えたりはしなかった。連日、同じ時間にこの情景を見せられて、一滴の水さえのめぬわが身を哀れんだ。
一月に幾度か、戦端が開かれた。どちらが先に、最初の一発を射ちだしたのか。いつの射ち合いでもそれを聞き定めることはできなかった。最前線の私の耳にはまるで両軍が打ち合わせて射ち出し、射ち終えたもののように聞こえた。
分哨地点から二キロメートル東方の国営鉄道タンニン駅に砲列を敷いた友軍の野砲部隊が七十ミリの砲弾を射ち込んでくる。五十メートルか百メートル下から射つわが擲弾筒分隊の五十ミリ砲弾も、七十ミリ野砲弾も、そして敵の七門の七十ミリ迫撃砲弾も、後下方からバリバリと射つ友軍の重機関銃弾や軽機関銃弾も敵と四十メートルしか離れない分哨地点と草地とその向こうの敵陣にも落下している。銃弾は散弾ではないが、すべての砲弾は木の葉に触れても破裂する瞬発信管の装着だから、分哨の陣地の上の枝や葉に触れても炸裂するから、鋭利な破片が私たちの上から雨・霰(あられ)のように獲物を目指して襲いかかるのである。
味方も敵も無差別に私たちを狙って射ってくるのだ。ジャングル全山が揺らぐような銃砲弾の炸裂音は、閉じた密室で、あらゆる楽器や器物を滅茶苦茶に叩いたような、この世のものでない轟騒音を出す。
十五分間だったろうか−−−どちらからともなく、殆ど同時にこの世のものでないこの轟騒音がピタリッと止む。
耳が痛くなりそうな森閑とした静寂が、まもなく郭公のカッコー・カッコーというあの鳴き声を生み出す。
あの轟騒音、凶風、凶音は何だったのかと思う。
それからみなの安否を確かめる。「ああ、俺は今の戦闘でも敵も部下も戦友をも死なさなかった」と思うと、ホッとする。安堵が蘇る。
一日に数回以上、この十五分間程の凶乱が繰り返された。
そのころはまだ輸送機を見ただけで、カーチスホーク戦闘機もロッキード重爆撃機もあの二つ胴の迷彩などしない戦闘爆撃機も見ず。空中からの敵空軍機の襲撃はなかった。
この一週間の間に六人のうち渡辺一等兵が不発の友軍の擲弾筒弾を自分の壕に見舞われて顔面蒼白でフラフラッと立ち上がり、その翌日にはその左腕を銃弾が貫通して隊列を離れた。朝鮮から特別志願兵で来た松本上等兵はどんな砲弾を受けたのか、鉄兜の頂点に穴をあけた砲弾が下顎骨を砕いて脳味噌をそっと壕底に、そっくり置いたように置き、壕の内斜面を全身の血を叩きつけたように−−−鮮血で染めていた。
私は轟騒音のまっただなかで左下肢に痛撃を受け、頭に冠った鉄兜で顔面下の土を一ミリでも掘り下げる作業をストップさせられ、同時に“やられたッ”と大声をあげたのだが、そっと左手で左下肢を撫でたものの、血らしいものはなかった。射ち止んでから身を起こして見やると下肢ほどもある木の枝が砲弾で幹を離れて落下、私の左下肢を直撃したものと分かった。
いずれもこの戦闘での体験だが、左下肢は鋭利な剃刀(かみそり)の刃のような迫撃砲の破片を受けたところから血が滲み出ていた。それは後になって分かったことだが、この戦闘の地を関西の部隊と交代して離れ“転身作戦”と称してミートキーナ地区を離れビルマの中央部へと行軍したが、この退却行では交代した関西部隊がまもなく、私たちよりも先になって退却していたことが分かって苦笑させられた。
結局、私たちはこの退却行で十分おき、十五分おきに超低空で襲来するカーチスホークやロッキードに散々に痛めつけられた。
生きていることが不思議。累々たる友軍の屍をあとに残して命を完したことは不思議。それだけ反戦と平和な社会・国・地球を創設したいとの欲求は熾烈に燃え盛って止まない。