おかげさまで創刊50周年
1969年11月、「ビル新聞」は「東北ビル新聞」として杜の都・仙台で誕生しました。
以来半世紀、本紙はこれからも業界の発展と共に歩み続けます。
創刊50周年に寄せて
「一隅を照らす」業界の羅針盤として
1969(昭和44)年11月に呱々の声を上げた『ビル新聞』は本年11月、創刊50周年の節目を迎えることとなりました。
左に掲げた写真は、創刊第1号となった『東北ビル新聞』1969(昭和44)年11月10日号1面の紙面です。
頁をめくった2面には、創業者である故・大林しげる(本名・良二)氏が『発刊についてのお願い』と題する次のような一文を掲載しています。
「東北の日刊新聞社の編集局次長として、毎日の生活を新聞のなかに埋めつくしてきた私ですが、こんどはからずも業界のみなさんの隔意ない御協力で、この新聞社を創設でき、業界の発展に貢献させていただくことになったことを、心からよろこぶとともに、御期待に応えられるよう、しっかりやろうと決意したわけです。(中略)とにかく業界の発展と公共の福祉のために、持っている経験とあらん限りの智恵をしぼって新聞発行をつづけます。」(原文ママ)
本紙の前身である『東北ビル新聞』は、この大林氏の新聞発行に懸ける並々ならぬ情熱の下、杜の都・仙台の地で産声を上げ、幾星霜を経て今日に至っています。創刊当時は題字下に記載されているように東北ビルメンテナンス協会内に発行所を置き、同協会の機関紙としてスタートを切りました。その後、1976(昭和51)年7月には『ビル新聞』と名を改め、名実ともに全国紙の仲間入りを果たしました。その後の足跡につきましては2面の社史に譲りますが、この間、関係各位の皆様には多大なる御支援御協力を賜りましたことを、衷心より御礼申し上げます。
私事になりますが、今から5年前、それまで30年以上にわたり片隅に籍を置いてきたスポーツマスコミの世界から、思わぬ縁で未知のジャンルに転身する運びとなりました。初めの頃は何も分からず、文字通り暗中模索の日々で右往左往しましたが、年月を経て業界の輪郭が少しずつ分かるようになると、私の脳裏には一つの言葉が思い浮かびました。
それは「一隅を照らす」という言葉です。御承知の通り、これは天台宗の開祖・最澄が著書である「山家学生式(さんげがくしょうしき)」の中に記した言葉で、伝教大師はこう言います。
「宝石十個が国の宝ではない。社会の一隅にいながら、社会を照らす仕事をする。その人こそが、なくてはならない国宝の人である」
つまり「一隅を照らす」とは「社会の一隅にいながら、社会を照らす仕事をする」ことを意味します。いささか牽強付会に過ぎる解釈かもしれませんが、私は業界のことが少しずつ分かるようになると「この業界の仕事は、まさに一隅を照らす仕事ではないか」と感じるようになったのです。
この業界の任務は、私がかつて関わってきたスポーツのような華やかさはありません。むしろ地味で縁の下の力持ち的業務と表現した方が適切かもしれません。しかし、その仕事の中身は社会にとって必要欠くべからざるものです。そればかりか近年では、建築物の高層化・多用途化・複雑化等に伴い、従来のような清掃・警備・設備管理といった範疇を飛び越え、建物の長寿命化や省エネ・省CО2を中心としたスマートビル化と呼ばれる高度な技術が求められています。
しかしその一方で、業界は他の業種と同じく、人口減少に端を発する慢性的な人手不足に悩まされています。ロボットの利用、外国人労働者の活用など様々なことが試行錯誤されていますが、現状はどれも決め手に欠け、解決策を模索している状態です。このように業界は今、大きな岐路に立たされていると言えますが、このような難局においても、いやこのような難局だからこそ「一隅を照らす」存在として社会に貢献することを願って止みません。本紙は、そのためのヒントとなるものを提供する羅針盤のような媒体でありたいと考えています。
半世紀という長い歴史の中で、私が本紙に関わったのは僅か5年、十分の一に過ぎません。「10年一区切り、必死の2年」という言葉があります。物事が成功するには10年が必要だが、ただ10年あればいいのではない。その間に必死の2年がなければ物事は成就しないという教えですが、私の場合、この2年を5年に置き換えて振り返った時、必死の5年を過ごしたかと問われれば、甚だ自信はありません。
そんな心もとない人間ではありますが、一つだけ皆様にお約束できることがあります。それは創業者の大林氏と同じく「持っている経験とあらん限りの智恵をしぼって新聞発行をつづける」こと。
とはいえ、業界の中では未だ門外漢の域を出ない存在の私です。関係各位の皆様におかれましては、今後とも変わらぬ御指導御鞭撻を賜れれば幸甚です。(令和元年10月28日号より抜粋)
令和元年10月
株式会社 ビル新聞社
代表取締役社長 松林 善一